去る2月3日、山口市が主催する山口ヒストリア観光記念「続日本100名城見学会」に参加してきました。
今年の4月6日(城の日)から続日本100名城のスタンプラリーが始まるそうです。それに向けて盛りあがってます!
滋賀県立大学の中井均教授が、午前中の座学に引き続き、現地をガイドしてくださいました。
内容が非常に興味深く、参加者の方々も満足し楽しまれている様子でした。
山城は防ぎながら戦う城です。
1550年ごろ、武器は基本的には石だったそうです。
敵が郭(くるわ)から登ってくるのを、投石で防御していた。
郭とは、軍事的・政治的な意図を持って、削平・盛土された平面空間で、城の内外を土塁、石垣、堀などで区切った区域の名称です。
郭から郭は、するどく切り立った傾斜が作られ、次の郭の淵にむかって盛土がされました。
するどく切り立った傾斜は『切岸』と言い、垂直であればあるほど、敵が登ってきにくいそう。
防御に大切なのは、郭、土塁、堀切り(郭をV字に切る)、切岸で、もっとも大切なのは切岸なんだそうです。
山城見学のベストシーズンはなんと冬!
植物の生育があまりなく、ブッシュの少ない冬が断然おすすめですって。
下草や雑木の伐採が、山城巡りでは大事だそうで、今回、この見学にあわせて文化財保護課が、伐採をされていたことを中井先生は褒めてらっしゃいました。
当時の様子をできる限り再現し、ブッシュなどを整備することで、散策者に有意義な体験がしてもらえるんですって。
以下、見どころをまとめてみました〜。
◆ 高嶺城跡の見所
これだけ大きく、石垣が残っている山城はそう、ない。非常に貴重である。
《 階段状に配置された曲輪群 》
*切岸が垂直であればあるほど良い。(登りにくいため)
*切岸の部分に立木はなく(あればそれを支えに登られるため)、城のある前には木をあしらい、城の存在を隠していた。
*築城の上にむしろを敷き、弓が降りかかるのを防いでいた。
*主郭に100人ほど人が入る高嶺城は、大きな山城だった。
《 主郭の石垣⇒特に北側の2段の石垣(時期さか技法か) 》
*本丸とは言わず、主郭と言っていた。
*大内氏は瓦は葺かず、板張りだった。
*毛利氏の頃も2種類あった
@糸切(永禄・天正)
Aてっせん(関ケ原の合戦以降)・・・2種類の瓦
*隅石が小さい(萩城は大きいのでそれと比較して)
*石垣を作るのに4m以上は、当時の技術では無理だった。
*山肌にぐり石を貼付けて、そこに石を積んでいく。
「ぐり持ってこい」と農民に言うが、ぐり石を探すのも結構苦労していたみたいだ。
《 主郭南側の石垣⇒鏡石が用いられている 》
鏡石が大きいのは、毛利の特徴的なもの。豊臣大名以前で天正15年くらい。
《 石垣隅部の積み方⇒正方形の石材を用いて、直角になるように重ねて積む 》
《 崩れた石垣⇒破城(城割)の痕跡 》
石垣の隅を崩す
自焼け没落…ふもとの城に多いが、自分で焼いてとんずらをすること。
落城する際、焼けているとは限らない。むしろ燃えている場合の方が少ない。
山城での戦闘行為は少なかった。
《 主郭平坦面に残る礎石⇒山上の居館 》
*御殿の礎石 戦争もたくさんあっただろうから、大内氏はここに住んでいたのだろう
《 山城の特性 》
土の城:戦国時代(1550年くらいまで)
天守閣がない、鏡石を等間隔に並べる
石の城:1550年以降…鏡石を角にピッタリと合わせて並べる。
最後に・・・
『城をなぜここに作ったのか?』と疑問がわいたのなら、主郭付近の一番眺めのよい場所から下を見てみるとよい。
自分の領地を一望できるポイントに作る(自分が領主になった気持ちで眺めてみるのが大事)
高嶺城は、見るポイントさえ分かれば、とっても魅力的なお城なので、郭の散策をしながらぜひ訪れてみてくださいね。
今回記載した内容ですが、
中井均先生は『私の持論や見解も含まれており、他の見解と違う点があるかもしれない』とおっしゃっていました。
また私の理解不足で、誤った箇所があるかもしれません。
ご了承下さい。
posted by 大路ロビー at 00:00
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