2012年01月01日

国指定史跡 大内氏遺跡 大内氏館跡 池泉庭園


池泉庭園とは

日本庭園の様式を主に表し、全国に「池泉庭園」はたくさんあります。
伝統的な日本庭園の様式は、「池泉(ちせん)庭園」、「枯山水(かれさんすい)」、「露地(ろじ)」の3つに大きく分類されています。
更に池泉庭園は、庭園を観賞する方法によって、「観賞式」、「回遊式」、「舟遊式」、あるいはそれらのいくつかを取り入れたもの等に細分されています。


大内氏館跡の池泉庭園について

この庭は、大内氏館跡の南東部に位置する池泉庭園で、平成4年からの発掘調査で発見され、
復元後の平成23年8月から一般公開されています。
1400年代末から1500年代初頭に作られ、1500年代中頃まで使われていました。
その頃、龍福寺はまだ建立されておらず、大内館があったので、「大内館の庭」ということです。現段階では「館跡」の痕跡はまだ発見されていませんが、今後の調査で立派なお屋敷に繋がる何かが見つかるかもしれません。


今見ている庭園は調査で発掘された本物?

保存を目的としており、本物ではありません。
発掘の成果をもとにオリジナルの遺構が損なわれることのないように、約50pかさあげした上に復元されました。石は史跡や周辺の発掘調査で出土したものを使用しています。


ココが貴重

館跡は水はけの良いところに立地するため、水を引くのには多くの労力が必要だったと考えられます。また、この庭を作るため、敷地が20m拡張されたことも分かっています。
館で行われた儀礼や宴会、芸能、文芸などの中にはこの庭園を背景に催されたものもあったと思われます。
中世に作られた現存する庭園は、当初の姿を留めているものは少なく、こちらの庭は、大内氏滅亡の頃には埋まっており、室町時代の庭園様式を伝える貴重な文化遺産といえます。


庭園の見どころ

池について

ひょうたん形の池は、南北40m東西20mで、中央には楕円形の島があります。池縁には、護岸が崩れるのを防ぐため、石が並べてあります。池の水は東側の土塁の上から引かれています。水深は30p程度です。
当時の技術では深い水深で水をきれいに保つことは難しかったと考えられ、池の深さは復されたものと同等だったようです。
室町時代の連歌師で宗祇(そうぎ)という人物が、各地を旅した中で大内館を訪れた際「池はうみ こずえは夏の みやまかな(1480年頃)」という歌を残したと言われていまが、舟遊びをするには少し小さく浅い池なので、現在調査中の築山など、別の大内館の事かもしれませんね。

かまど跡と蔵跡について

池泉の北側からは、列建物(せんれつたてもの※蔵)と石組みかまど(※台所)が確認されました。池の北辺くらいまでが庭園空間で、それより北側は性格の異なる空間であったと考えられます。

井戸と建物跡

池泉付近では、石組み井戸と石組基壇が発見されています。井戸からは金箔を張った素焼きの皿が出土しています。
石組基壇は、規模は小さいものの、ここからも池泉庭園を鑑賞した可能性があります。

庭園内の植物

植栽されている種類は、中世の文献などを参考にしています。
また、「蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく」の中に、大内邸に蘇鉄(そてつ)があったとの録があることから、少し不釣り合いな感じがしますが蘇鉄が植えられています。
土塁の上に植えてあるツゲの部分には、当時は板塀がありました。

◆龍福寺…曹洞宗。弘治3年(1557)大内義隆7回忌に毛利隆元が白石から移した。    
◆大内氏館跡…館は、1300年代末〜1400年代初頭に作られ、弘治3年(1557)に廃絶している。広さは160m四方だが、150年間で少なくとも5回の改修が行われ広さも変化している。
列建物(せんれつたてもの)…通常母屋などの建物は礎石の上に木造建築をするのに対して、「(せん)」と呼ばれる板状の瓦を並べ、その上に礎石を配置してある。基礎が念入りに作られており、蔵と考えられる。
◆訪れたと言われている人々・・・雪舟1486年「山水長巻」
                           サビエル1550年
                           毛利隆元 1537〜1540年人質として滞在。
◆宗祇 「池はうみ こずえは夏の みやまかな」(1480年頃)
◆蔭涼軒日録・・・京都相国寺塔頭鹿苑院蔭涼軒歴代の日記(1435〜1493年)


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posted by 大路ロビー at 00:00 | おさんぽMAP