2012年01月01日

十朋亭(休館中)

※十朋亭(山口市)は、周辺整備に伴い休館中です。
休館予定 平成28年10月〜平成30年秋



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十朋亭ってなぁに?

徳川時代の1800年ごろ(亨和年間)に、萬代家の3代目ご当主である利兵衛英備さん(1775-1838年)が「裏の離れ座敷」として建てた建築物です。

 

萬代家ってどんなお家?

初代のご当主である源七さんが1780年ごろ(寛政年間の初期)に醤油の商いを行ったのがはじまりです。
代々この家業を引き継いで、3代目のご当主利兵衛さんが商号を「亀屋」と称しました。
この時に家業が大いに盛えたので、萬代家では3代目を「中興の祖」としています。

 

なぜ「十朋亭」という名前なの?

当時の時代背景が関係しています。
徳川時代も中期以降は世の中も安定に向かっていたので、当時の文化人(画家、書家、
学者)たちの多くが自己の見聞を広めるために全国を旅していました。
しかし支援者や後援者がおらず、生活の資金に困っていた人も多かったのです。そこで、旅先の地方の有力者やお金持ちの家でお世話になり、そのお礼として画や書を書き残して次の旅に出かけたと伝えられています。
「裏の離れ座敷」が完成した時に萬代家に滞在していた人物が当時の文化人の一人、大阪の儒学者であった篠崎小竹(1781-1851)です。そこで、利兵衛さんは小竹にこの離れの命名を頼んだのです。

 

十朋ってどんな意味?

篠崎小竹は儒学者でしたので、萬代家の商号「亀屋」と、中国の古典の一つ「易経」の一文「益之。十朋之亀、弗克違。元吉」とを組み合わせて『十朋亭』と命名し、額に揮毫しました。

 

◇易経とは

 『易経』は易占いのテキストです。書物としての歴史は大変古く、エジプトのパピルス文書と肩を並べる東洋最古の書物です。『易』という根本的な書物にはじまり、周の時代に解釈が大きく発展した『周易』を基に、現代に読みつがれている『易経』の体裁になりました。儒教で基本経典とされる五経のうちの一つです。

◇十朋之亀とは―――「益之。十朋之亀、弗克違。元吉」

これをえきす。じっぽうのかめ、たがうあたわず。もときち。
「十朋之亀」は非常に高価かな亀のことで、古代の占いに用いた高貴な霊亀(十朋の亀)で占っても間違いのない、保証された益である、という意味です。

 

十朋亭の役割は?

1863年(文久3年)4月、当時の長州藩主「毛利敬親」は、居城のある萩が藩政を指揮するのには不便であるとして政庁を山口に移しました。
これに伴い多くの役人の家屋敷が必要となりましたが、急に用意もできないため、藩として山口の民家の中から役人の宿泊所を選んだのです。「十朋亭」はその中の一つです。
当時の藩の重役であった「周布政之助」が最初の宿泊人であったと伝わっているそうです。

 

十朋亭に訪れた人々って誰?

多くの長州藩士たちが「十朋亭」に出入りしました。
桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、坪井九衛門、富永有隣、来島又兵衛、白根多助、井上馨、伊藤博文、山形有朋、等ですが、長州藩士以外にも、久留米の真木和泉、菊四郎父子、土佐の土方久元、津和野の福羽美静、常陸笠間、加藤桜老の名前も伝わっているそうです。

 

十朋亭と歴史ってどんな関係?

特に、伊藤博文・井上馨との因縁は深かったようです。2人が1863年(文久3年)勉学のための渡英先であるロンドンにて、四カ国連合艦隊が長州を攻撃するという情報が入ったため(のちの下関戦争)急遽帰国し、翌年の1864年6月18日、山口の萬代家の離れ座敷「十朋亭」に落ち着き、帰藩届けを出したのです。

 

他にはどんな事をしていたの?

5代当主の利兵衛輔徳さん(1821-1906年)の時には商才に優れ、家業を継ぐかたわら藩の要請で貿易品の取扱所である「越荷方会所」の頭取を務めていました。
幕末の藩の軍資金集めに尽くし、また、人の面倒見もよく、「十朋亭」で滞在していた当時の若い武士たちの面倒を、親身になってお世話されていたようです。
「十朋亭」で生活していた人々が、後に明治政府の中核で活躍することとなりましたが、その後も、萬代家には年祝の書や、自筆の書き物が届けられました。これは、若い頃の想い出にからみ、大変お世話になったお礼という事のようです。
それを萬代家では掛軸等として、今日まで大切に保管されています。



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posted by 大路ロビー at 00:00 | おさんぽMAP